辺りは既に暗く、闇に包まれている。唯一ある光は障子の隙間から垣間見える月の輝きだけだった。幼い頃に暮らしたはずの、けれどそんな記憶など殆どない、思い入れもない紅の城の自室で、鈴は一人待っていた。
そこには鈴以外、誰の気配もなかった。感じるのは風の音と、月の光と、闇の恐ろしさだけである。
つい数刻前まで、ここには大勢の気配があった。なかなか眠ろうとしない鈴に対して、麗花や月秦は、今夜は遅くなりそうだから、寝ていてほしいと頼みこん でいた。好きにさせれば良いと言い放った優礼の口を塞ぎながら、月秦は必死に説得しようとしていた。昔の鈴を嫌悪していた姿を思い浮かべながら、鈴は首を 横に振り続けた。
まるで大好きない飼い主に叱られたあとの子犬のように、明らかに残念そうな様子で下がっていった月秦を見て、麗花が面白そうに笑っていた。
“―――くれぐれも、月秦を落ち込ませるようなことはなさらないでくださいね。姫様が体調を崩されるたびに、男鹿様以上に心配して落ち込むんです、無理はなさらないでください”
麗花は最初こそ鈴を止めていたが、実際はそこまで止める気はなかったようだ。鈴は快く了承し、眠くなったら正直に眠る約束で、麗花と優礼を下がらせた。
傍らにはつい先程まで、志津が控えていた。鈴が男鹿の元へと送られた後、鈴に仕えていた者たちは、その多くが城に引き取られ、従来よりも良い待遇で仕事 をしていた。志津はこの城の城主であり、鈴の父でもある継正に仕えていた。しかし、鈴が城に滞在している間は、鈴に仕えることを許可されているという。
とはいえ、常に何かしら動いていたい志津は、他にも雑務をこなしているようで、朝は早い。無理をしてはいけないと、麗花たちが下がった後、志津も下がらせた。
すると微かに衣擦れ(きぬずれ)の音が聞こえ、月明かりに照らされた、人型が障子にうつる。
「―――お帰りなさい、男鹿様」
障子がそっと開けられるのと同時に、鈴は笑顔で出迎える。男鹿は一瞬眉をひそめていた。怒られるだろうかと鈴が見上げると、男鹿はただ一言、「眠ろう」と呟く。
(やっぱり、気を張っていて疲れていらっしゃるんだわ……)
鈴が返事をする前に床に入って、寝息を立て始めた男鹿は、鈴が何度呼びかけても起きなかった。そんな男鹿に寄り添いながら、鈴は眠りについた。
外では月が煌びやか(きらびやか)に光っていた。もうすぐ月は満ちようとしている。刻一刻と迫り来る変化に、人々が気づくことはなかった。