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「……へぇ。その辺りにあるものに書かせたのが悪かったかな」

 その言葉で全てを察した栞那は、彼に向かって手帖を差し出す。彼はどこか不気味とさえ感じる笑みを浮かべ、手に取った。字は女性の字なので、きっと他人に書かせたものだろう。それにしても、よくこれだけ書き上げられたものだ。書いた人は手が痛くなったりしていないだろうかと、どこか的外れなことを考える。

 しかしそれよりも、今気になるのは、そこまでしてこの男は何をしたかったのか。幾度も屋敷に忍び込むリスクを負ってまで、連れ出す価値が自分にあるとは、栞那にはとても思えなかった。

 思わず溜息を零しながら、栞那は再び男を見上げる。

「認めるんですね? ……なぜこんなことを?」

「何故かって? 決まっているじゃないか。君は大切な妹だからね。危ない場所にはいて欲しくない、ただそれだけさ」

 とぼけるように両手を挙げて、当たり前のことだろうと言うが、男と栞那に血縁的なつながりはない。それに男はずっと保護者の役割をしてきて、年はそこまで変わらないものの、栞那にとっては兄というより父だった。

「妹?」

「そう、妹。……君がどう思っていようと、僕にとって君が妹であることは変わりないよ」

「……てっきり子供扱いしていると思ってました」

 年がさほど変わらないとはいえ、昔から親子そろって自分を愛でていたことは、栞那も気づいていた。今は亡き男の父親も、栞那をとても可愛がっていたからだ。ただ栞那はそれを子供を可愛がる親のようなものだと思っていたが、男の父親の可愛がり方と男の可愛がり方は、少し違っていたかもしれない。

 すると、男は肩を震わせていた。そこまで面白いことを言ったつもりのない栞那は、すこし睨みつけたものの、かれは見向きもしなかった。

「そうだね、そうともいうかもしれない。さて、君がここにいるのは不満だが、彼の側ならいいだろう。マックス、主人を守るんだよ」

 男の足下で、お座りしながら、ずっと尻尾が左右にふれていたマックスは、嬉しそうに鳴いた。主人を間違えているのではないかと思うくらい、男に懐いているが、すぐに栞那のほうに歩いてきて、同じように座りながら尻尾を揺らしている姿を見ると、不満ものみこんでしまう。

「きっと、しばらく会うことはないですね」

 それでも、家族のように接してきた相手で、栞那は物心付くときから世話になった男だ。寂しくないというと嘘になる。

 けれど今は自由に羽を伸ばすのもいいかもしれないと、栞那は思っていた。

 守られるばかりでなく、自分で自分を守れるように。それが第一目標だ。

「そうだね。こちらも少し仕事が増えたから、しばらくは来れないだろう。栞那、間違っても、彼の側から離れるなよ」

 彼、というのは、静貴のことを指しているのだろう。しかし、そこでなぜ彼の話が出るのか、栞那には皆目見当がつかなかった。

「さっきから、一体なぜ彼の話になるんです」

「君に全てを明かす用意ができていないからね。今言えるのはそれだけだ。東條静貴の目の届かない場所には行かないこと。いいね?」

 栞那に近寄ると、栞那の頭に手を置き、言い聞かせるように繰り返した。

 言えないと言う男から、引き出せるものは何もない。それだけの事情があるのだろうと思った栞那は、黙って頷く。

「この屋敷から、私自身の意思で出て行くことはありませんから」

 にっこりと笑みを浮かべ、再びマックスを撫で回す。すると踵を返し、窓へ手をかけた。そして窓枠に座った。

「それでいい。それじゃあマックス、後は頼むよ」

 そう言い残して、颯爽と去っていく男の姿を見届けると、足下のマックスの両手をしゃがみながら掴んで、問いかけた。

「いったい、どういうことなのよ、マックス?」

 マックスはもちろんこちらの質問に答えるはずもなく、嬉しそうに栞那の顔を舐めまわしたのだった。

2016-01-10

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