静貴と別れ部屋へ戻った栞那は、マックスに食事を与えてから、眠りにつくために服を着替えた。そしてベッドの中へと滑り込むように身を潜ませる。
夕食は断った。何か気が落ち着かず、食事を取れる気分にはなれなかったのだ。もう今日は撤退したはずなのに、まだその気配が消えてない。栞那自身は関わったことがないが、情報屋とはいえ、時には法を犯すこともあることを、栞那は知っていた。栞那を連れ戻そうとしているのはその人々だろう。彼らが昼間撤退したからと、夜も来ないとは限らないのかもしれない。
同じように落ち着かない様子で、マックスが不安そうにぐるぐると部屋を回っている。
(伝えるべきだったのかな)
よく考えれば、そんな容易く彼らを撤退させることなどできやしないのだ。少し違和感を覚えた時点で、静貴に伝えるべきだったのかもしれない。
「ねぇ、マックス。あなたも感じてるでしょ? 静貴の所、行こうか?」
ふと壁の時計を見ると、時刻は既に10時近く。眠ってはいないだろうが、もう誰もが部屋にいる時間だろう。この時間に訪ねるのは気が引けるが、このまま落ち着かないよりは良い。
マックスを撫でながら話しかけると、彼は首を傾げた。栞那は黙って扉の方へ足を進める。
けれど、それは直ぐに止まることになった。マックスが、栞那の行く先を塞ぐように、栞那の周囲をくるくると回り始めたのだ。
「マックス! 行かないの? どうしたの、急に」
マックスは首を傾げるばかりで、他には何も伝えようとはしていない。けれど栞那が外に出ることだけは、防ごうとする。
(何が言いたいの? ……もしかして、もう外にいるんじゃ……って、そんなわけないか。音もしないし)
何も聞こえないのだから、近くにはいないだろう。そう思って、栞那はベッドへと戻ろうと、扉を背にした。
吹くはずのない風が、背中を流れた。
ふと思い返すと、扉の鍵を閉めた記憶はない。
油断していた―――そう思ったときには既に遅く、背中には誰かの気配がした。
この状況下で、ここまで気配を消せる人物を、栞那は一人だけ知っている。かつて自らが使えていた、周囲から主と呼ばれる男。
「迎えに来たよ、栞那」
「女性の誰もが、物語で王子様が言いそうな台詞ならすぐに頷くと思ったら、それは大きな間違いです」
いくら太陽の下であれば、誰もが羨み求めるような容姿を兼ね備えていようと。闇に身を置く彼の瞳は、一時を除いて、常に冷めているのだ。彼は栞那以外の者に対しては等しく冷めた瞳をしている。
その意味を、栞那は深く考えたことがなかった。ただ自分は彼に気に入られているからだと、曖昧な認識しかしていなかった栞那に、それを気づかせたのは、静貴だった。
それまで栞那は、あまり他人と関わったことがなかったのだ。だから、気に入った相手と態度が違うのは、ごく当たり前のことだと思っていた。
いや、今でもそれは、決して間違いでないことは分かっている。けれど他人のそれと、この男のそれは、少し異なる意味だと、気づいてしまった。彼が自分に仕事をさせたがらなかった、その理由も。
「君に仕事をさせるのは間違いだと、改めて思ったよ。まさか君が大人しく、敵に身を預けるとはね」
「あなたが嘘つきだからです。もうあなたの元へは帰りません。闇には関わりたくない」
「嘘つき、ね。栞那、君は知っているのかい? 僕の母がなぜ、命を落としたのかを。彼はそこまでは、教えてくれなかったのではないかい?」
「それは、任務に失敗して」
主であった男は、急に笑い声を上げる。栞那は背筋が凍るように冷えていくのを感じていた。
「違うさ。母は騙されたんだ。あの男に―――
それは、静貴の父であり、この屋敷の主である人物の名だった。
2014-12-20