「―――わたしは幼いときに両親を亡くしまして、程なく主へと引き取られました。記憶が無いほど小さなときですので、私は両親の顔すら存じません」
窓枠に座り込む男に背を向けながら、栞那はベッドへ座り込んだ。扉の鍵は閉められたまま、静貴は栞那の隣に座っている。
あれだけ頑なに拒んでいたのにもかかわらず、先程の男の一言で、栞那はすんなりと自分の身の上を打ち明けることができた。
「本当の名は?」
「栞那が本名です。苗字は存じません。今までは組織に関わりのある学校に通い偽名を名乗っておりました。―――今回本名を名乗ったのは、主《あるじ》の指示です」
本来ならありえないことだ。本名を名乗って無事に戻れるほど、栞那は優れていないと思っている。一般人が普段本名を使うのと、“悪”の世に生きる栞那たちが本名を使うのとでは、漏れる情報の量が違うのだ。名前が明らかになれば居住地が割り出され、所属する組織の支部や本部まで割り出されることも少なくない。それらの情報は普段使わないから漏れぬものであり、明かしてしまえば隠すことは出来ない。
“悪”の世界を知る人間なら、敵らしき人物が現れたとき、名乗った名前が本名か否かを調べるものだ。そこで記録が出なかったり、明らかに付け加えられた後があれば偽者だと分かる。けれど同じ偽名は何度も使わないのが一般的で、その場を凌ぐことしか考えず、細工をすることはほとんどない。
「それにしても、捨てる気があるんだかないんだか分からない捨て方だな。何でわざわざ遠藤氏の孫娘と偽るんだ。いまどき夜会に出ない令嬢なんて珍しくねぇ。化粧で誤魔化せば、もっと切り捨てやすいように送り込めただろうに……」
「それはただ、私がそのお孫さんとそっくりだからだと思います」
たしか与えられた資料にも、そのように書かれていた。存在する人間に成りすますのはリスクが高いと思っていたが、まさか切り捨てられると思っていなかったので気にも留めなかった。浅はかな考えをしていたあの時の自分がいっそ恨めしい。
「君は遠藤氏の“悪”の顔を知らないのだろう。君を孫娘だと宣言したんだ、君の主と裏で繋がっているに違いない。……下手に遠藤氏を刺激しない方がいいかもしれないな」
「けれど次は、本気で刺客を送ってくるでしょう。今日のは警告にしか過ぎなかったんです。わたしはもう不要だと、そう伝えるためだけに主は」
「それはないよ。先程言ったとおり、それでは君を遠藤氏の孫娘だと偽らせた理由が―――」
「嘘ではない。栞那はわたしの孫娘だよ。15年前亡くなった娘の沙那の遺したものだ」
あるはずのない鍵を手にとって、扉を開けて入ってくる。それは紛れも無く遠藤の姿だった。
「今回は孫娘を取り戻したくて、話に乗っただけだ。娘を失って何もかも無くした気分でいたときに、奪われてしまったものをね」
2014-07-29