『栞那。君は決して、僕の側から離れてはいけないよ。僕がダメだといったときは、素直にこの仕事を辞めるんだ。いいかい、これは約束だ』
『はい、主さま。それまで精一杯、お役に立ちます』
まだ幼く、仕事の経験も浅かった頃、主は栞那に何度も仕事の恐ろしさを言い聞かせていた。仮にも組織の長であるのに、組織の脆さを語るその姿は、 いつになく真剣だったのを覚えている。
(私が約束を違えたから、お怒りになったんだわ。今すぐ戻らなければ)
起き上がるとそこは見覚えのない部屋だった。記憶にないが、きっと倒れたのだろう。原因は考えるまでもなく、仲間の襲来だ。まさか仲間に、つい先 刻まで同じ屋敷で過ごしていた彼に命を狙われる日が来ようとは思いもしていなかった。
けれど悪いのは自分なのだと、栞那は心を落ち着かせる。側にある椅子には、静貴が眠っていた。外はすっかり暗くなっている。早く戻らなければ、主
は栞那を許さないだろう。
そっと立ち上がり、ドアノブを手にした。そのドアは開くはずだった。
ドアはびくともしない。手前に引いても、押しても、ドアが開くことはなかった。
「無駄だよ。この鍵がない限り、そのドアは開かない。それに帰る場所なんてないのだろう? 仲間に見捨てられた偽者さん」
「何を、……何のお話ですか? わたしはただお手洗いに行こうと思っただけです。眠っていらっしゃっるのを、起こすのは申し訳ないでしょう」
いつの間に起きたのだろう、彼は栞那の真後ろに立っていて、栞那がドアノブを握っている手を押さえていた。痛みはないが、振りほどくことはできな い。
動揺を隠すように、栞那は言葉を並べる。背中を冷たい汗がつたっている。栞那の手を押さえる彼の手が解かれるような様子はない。
「なぜ、あなたがわたしを見捨てるのですか―――これはどういう意味か、ご説明いただけますか」
「寝言ではありませんか? 意味なんてありませんよ」
それは真実であり偽りだった。栞那にそのようなことを言った記憶はない。だが、その意味は分かっていた。
(言えないわ。言えば処罰はわたしだけに留まらない)
主は既に栞那を見切り始めている。そんな状態で彼に招待を明かせば、彼も無事ではすまないだろう。出会ったばかりの自分のために誰かが命を落とす のは見たくない。
「ではあなたが姿を見るなり動揺した彼とはどのようなご関係ですか? あなたはずっと海外で暮らしていらっしゃったはずです。帰国後、同年代の相手 との交流は皆無だった。既にあちらのご友人で日系の者がいないことは調査済みです。一体どうご説明されますか?」
「それは」
「もういいんじゃねえの、若。さっさと捕まえちゃおうぜ。決まったようなものだろ?」
ベッドに降りかかる月の光を遮るのは、窓から姿を現した、若い男の身体だった。
「無駄な抵抗はやめるんだな。裏切られてなお庇う必要なんてねえだろう。さっさと吐いちまえよ」
その瞬間、栞那は肩の荷が下りた気がした。
2014-07-27