鈴の部屋を出た男鹿を待っていたのは、優礼でも月秦でもなく、麗花だった。
月の光は雲に遮られ、辺りは闇に包まれていて、彼女の顔色を伺うことはできない。
二人が気を利かせたつもりなのか、彼女が頼み込んだのかは定かでないが、無駄なことをするなと、男鹿は心底呆れていた。
「―――男鹿様」
「顔を見せてよいといった覚えは無いよ」
男鹿はあからさまに顔をそらして言い放つ。話を聞くのは得策ではないだろう。何の話か分からないが、鈴にあれだけ嫉妬していたのだから、おそらくは鈴を途中まで連れて行くと決めた、この度の戦の話だろうかと想像できる。
けれど男鹿の厳しい一言に屈せず、麗花は宥めるように告げた。
「この度の戦に、姫君を連れて行かれるおつもりなのですか」
やはりまだ嫉妬しているのかと、男鹿が叱るため振り向く。
けれどその時感じられた感情は、嫉妬などではなかった。
男鹿が戦にいく時に見せる、どこか心配そうな感情。だがそれが自分に向けられていないことは分かった。
「…望むのだから仕方がない。だが戦場までは連れて行かない。城までだ」
「お考え直し下さい。城とて安全ではございません。もしこのたびの戦、紅の国が負ければ、城は危険に晒されます。姫君の身に何が起こるか、―――ご想像もつくでしょう」
男鹿は驚きを隠せなかった。
数ヶ月前まで嫉妬に狂っていたはずの彼女が、今は男鹿と同じくらい、いやそれ以上に彼女を大切にしている。その顔はとても穏やかで、嫉妬の影は一切見えなかった。
(何があった?)
この短い間で、彼女の身に――少なくとも心に、何かしらの出来事があったことは想像に難くない。けれどあれだけの嫉妬をむき出しにしていた麗花が、どうしてここまで鈴を大切に思うことができるのだろう。
「…飢えをしのぐ為だけならば私が共に行きます。姫君は優礼と月秦が説得に行っております。男鹿様、どうかお考え直しを―――」
飢えをしのぐ為だけなら、自分の身を守れる麗花のほうが断然良いだろう。
だが、男鹿にとって鈴はそれだけの存在ではなかった。
「…すまないが、もう決めたことだ。お前の心配は分かるが―――…」
「では私が姫様を守ります」
男鹿の言葉を最後まで聴くことなく、麗花が言った。
それまで男鹿の言葉をさえぎるなど言語道断、男鹿の言葉に純粋に従っていた麗花が、初めて反発した瞬間だった。
「男鹿様にとって大切なお方なのでしょう。私に守らせてくださいませんか」
いつのまにか雲が消え去り、月が彼女の美しい顔を照らしていた。
そう告げる彼女の表情は、これまで見たことがないような、とても優しいものだった。
男鹿は麗花に、「それはだめだ」ということができなかった。彼女なら鈴を任せられるとさえ思ってしまったことは、男鹿のみが知ることである。