目の前に並ぶ文字の羅列を、栞那は淡々と読んでいた。栞那の仕事はただひとつ、“ターゲット”に近づき、“指定された情報を聞き出す”こと。その為なら手段は選ばない。もちろん、それは法律の範囲内での話ではある。
身も心も“他人”に成りすますために、成りすます“他人”の生まれや地位にあわせて、身につけるものは全て変わる。その為、栞那は決まった服装をすることはなかった。ただ決まっているのは、組織で共通で与えられる部屋着の類のみだ。それさえ、毎日回収されるので、栞那の部屋は家具以外には筆記具しかない状態になってしまう。栞那が部屋で何かをすることはなかった。海外で高校過程を飛び級で合格し、以来学校には通っていない。周囲からどれだけ勧められようと、大学への進学は拒んだ。仕事に支障が出るからだ。それに、学ぶのはこの先も出来る。情報屋は若いときほど情報を聞き出しやすく、行動しやすい。行動しやすいときに出来る限り稼ぎたいのだ。
「―――お嬢様。もうすぐ会場ですので、準備なさってください」
乗せられた車は高級車で、運転手の顔は知らない人物だった。とはいっても栞那は組織の―――屋敷に住む人間を知っているわけではない。むしろ一番知らないといっても良いだろう。栞那が知っているのは主と“伝達役”の男の声だけ。姿を知っているのは主に限られる。これだけ他の人員とのかかわりがないのは、主の配慮だった。というのも、栞那は人との関わり方があまり上手い方ではない。仕事の相手にはどうにかできても、仲間への配慮が出来ない。その為、他の人員が吹く数人で活動するのに対し、栞那はいつも単独行動だった。
目の前にある書類に再び目を通しながら、栞那は仕事内容を思い返していた。
今回栞那が成りすますのは大企業の元会長、遠藤幸雄の孫娘。彼女は過去パーティーなどに顔を出したことはない。既に遠藤とは話が通っており、今回栞那を“孫”として扱う手筈は済んでいる。孫娘も栞那と同じく飛び級で高校を卒業し、数年前日本に帰ってきたばかりの帰国子女だという。
これが最後なのだろうかと、栞那は考えていた。資料には本来あるべき使う“偽名”が記されていない。孫娘の名前さえ伏せられており、あるのは遠藤の名前だけである。つまり栞那は“栞那”としてパーティーに潜り込むということだ。
(やはりあの方は、私に期待しておられないんだわ)
情報屋として本格的に活動し始めた栞那に、主は引退を迫った。そのときは冗談だと思ってまだ新米ですよとつき返していたが、それが何度も続くにつれ、もしかしたら向いていないと言いたいのだろうかと感じるようになっていた。
「お嬢様、もうすぐ会場です。すでに大旦那様は入り口でお待ちかねですので、そちらまでご案内致します」
資料をそっと置くと、大きな会場が見えてくる。運転手が車を止めると、外に出てドアを開けた。そこに立っているのは資料に載っていた“祖父”の顔で、その手を取って栞那は歩き始めた。
2014-06-07