幼い頃から、ずっと彼の背中を追っていた。

 元々運動が好きだったこともあって、中学では運動部に入ろうと決めていた。その中で一番好きだと思えたのが、陸上部だった。ひとつ年上の幼馴染みの彼が入っていたことも、理由のひとつだった。

同級生であり、そして幼馴染みでもある彼の弟もいたこともあってか、部活に勤しむ日々はとても充実した時間だった。

「いつまで兄貴を追いかけてんだよ。勝てもしないのに、高校でも走るつもりか?」

 中学三年間で積み重ねてきたものは、決して劣っていないと自負していた。異性の彼に結果で勝てるとは思っていなかったが、部活の女子の中では常にトップの結果を出してきたのだ。それなりの自信はあったし、大会でも結果を得てきたつもりだった。

 けれど、周囲からしたら、その程度≠セったのだろうか。

 幸いなことに、高校でも二人とは同じ高校だった。弟は兄と同じ高校に入ることになってしまったことが不本意なようだったけれど、それでも変わらない日々を過ごすものだと思っていた。

「……勝とうだなんて。私は、ただ」

「勝つ気もない奴が走るなよ。迷惑だ」

 何も言い返せずに、同級生の彼が立ち去るのを、呆然と見つめていた。

「どうしたんだ?周汰から聞いたぞ、陸上続けないんだって?」

 同級生の幼馴染みの名を、兄である彼はためらいなく呼ぶ。どうしても呼べずに、いつも彼らを困らせていることを申し訳なく思った。

 周汰の兄であるの彼の名は翔汰という。兄弟と分かりやすい名前が、一方で彼らの容姿は似ていない。兄は父親に似て、弟は母親に似たのだと、昔聞いた覚えがある。

「理由はないの。ただもう、走れないから」

 それが偽りであることは、二人とも気づいているだろう。周汰にも同じことを言ったけれど、彼の言葉が影響したのかと問われれば否定することはできない。けれどもう決めたことであるし、それを隠すつもりはない。

「走らなくたっていいけどさ。逃げるなよ?……俺や周汰から逃げようなんて考えんなよ。まだ勝敗ついてないんだから」

「勝敗?」

 小さく呟くと、彼は得意げに言った。

 その目がとても妖しげに笑っている。

「俺と周汰と、どちらが先に落とせるか、ってね」

 その言葉の意味に気がついて、思わず目をそらした。

 そんなこと、決められるはずがないのに―――。





 流されるまま、入部した部活―――陸上部。

 まだ仮入部の段階で、そしてマネージャーの仕事をしている。顧問の先生も、先輩方も、マネージャーも必要だったから、どちらでも良いと言ってくれたお陰で、難なく居続けることができた。

 それでも見ているだけは辛いもの。実際に経験してみて初めてわかった。やはり陸上が好きなのだと。

 でも好きなのは、翔汰と周汰と3人で、順位を競い合って高みを目指すこと。

 二人が自分をかけて争っている事実を知った今、そういう意味でも、どうしても走ることができなかった。

『走ることだけが、陸上じゃないよ。他の競技、やってみたら?』

 中学でも少しお世話になった、翔汰の先輩。彼の言葉は間違っていない。別に短距離や長距離を走ることだけが陸上ではない。それ以外にだって陸上競技はある。けれどそれでも、走ることがしたいのだ。

『どっちがいいか―――どちらもダメか、答えを楽しみにしてるよ』

 翔汰の言葉が、頭の中で反復されている。その度に心が詰まるように痛む。

 彼は決して、どちらかを選べ、とは言わない。きっと彼はただ周汰の気持ちを代弁しただけなのだろう。きっと周汰が報われるだろうと、信じてやまないのかもしれない。きっとNOと突き返しても、笑って続く関係であるはずなのに、どうしても言えなかった。

 NOでは、なかった。けれどこの胸の内にある感情が、いかなるものであるのか、未だに分からずにいるのだ。それがどちらに対するものであるのか、判断できずに。

「……考えてみればわかるだろ。お前は俺のことなんでこれっぽっちも見てなかったんだから」

「周汰」

「言われなくたって分かってるさ。お前が見ていたのは、ずっと兄貴だけだった。そして兄貴が見ていたのは、俺たちじゃなかった」

 ああ―――分かりたくなかった。それは、すべてを裏切ること。

 ずっと3人でやってきて、ずっと一人しか見れずにいたのだと。ずっとすべてを裏切り続けていたのだと。

 胸の中で、何かが爆ぜてしまうような気がした。

「ごめん、なさい」

 周汰は黙って口を閉じた。その顔が悲しげに歪められたと思うと、彼は振り向いて立ち去る。

 頬を伝う冷たいものが、地面へと零れおちていった。

 この想いは決して表に出してはならない、ずっと一人で抱えなければならないものだと、決意を固めながら。





『それでも、俺は忘れねぇよ。しばらくは引きずるだろうな。この想いを』

 周汰は笑っていた。けれどその微笑みの奥に、複雑な感情が隠れているのだろうことは、容易に想像がついた。

 けれど口に出すことはできなかった。彼がひとり抱えようとしているものを、一部でも共有することは、助けではないから。それは彼に期待させる行為で、彼を苦しめる行為でしかないから。それはお互いのためにならないだろう。

(―――それでも、ただ1人を)

 心に芽生えたその想いを、消し去ることはできない。

「決着がついたね」

 気づけば目の前には翔汰がいた。きっと少しの休憩の時間だろう、汗滴らせて、その汗をタオルで拭いながら、彼は隣へ腰掛けてくる。

「この勝負は……」

「二人とも負けてますよ、会田先輩。だって先輩には本命がいるでしょう?さぁ、先生が呼んでますよ。いってらっしゃい」

 翔汰の言葉を遮って、早口で言葉を並べた。彼は反論せずに、口を閉じると、やがてただ一言、呟く。

「ごめん」

 顔を背けるようにして駆け出していった彼は、先ほどと変わらぬ笑顔を周囲に振りまいていた。

 けれどその顔も、どこか表情が暗い。

「これで、いいの」

 これからは後輩として、先輩の翔汰と接しよう。

 それが唯一出来る、周汰への償い。

 心に残るその人は、きっとまだしばらく、ただ1人であるから。