“―――雪彦くん。また、会えたなら、その時に必ず返事をするね”

 少女らしい綺麗な字でそう書かれた手紙を残し、彼女が引っ越していったのは、男が中学2年生の頃だった。当たって砕けろと友人に背を押され、片思いの子に告白したものの、それは学年末の話で、彼女は父親の転勤に伴って転校してしまったのだ。

 学校の靴箱に、その手紙が入っていたのに気づいたのは、離任式の日である。その手紙を読んで男は、初めて失恋を味わった。とはいえ、それは男にとって初恋で、恋が実った経験などしたことがなかった。

「―――会えるわけがない。ただ遠回しに断りたかっただけだろう」

  周囲の誰もが言った。それもそのはず、彼女が引っ越していったのは海外だった。そして彼女の両親の地元はどちらも男の住む地域ではなかった。元々仕事の関係で引っ越してきた彼女が、男の地元に戻ってくるとは思えない。男もまた、地元から出る予定がなかった。高校も大学も、地元に十分行くあてがあったのだ。男は成績が悪い方ではなかったが、長男ということもあり、できるだけ地元に残って欲しいと言われていた。

 男はそれから、異性と何度か付き合ったものの、関係が長く続いたことは一度もなかった。

 寒さも本格的になり、初雪が積もった夜、男は家路を急いでいた。何しろ雪の影響で自転車が使えないため、駅から家まで歩いて帰らなければならなかったのだ。

 男は名を雪彦と言った。それは男が雪が降り積もる、寒いこの時期に生まれたことが由来する。冬生まれというと寒さに強いのだろうと言われるが、雪彦はそうではなかった。

 寒さから逃れるように足を速め、黙々と家へ帰っていた雪彦だったが、ふと顔を上げると、明るい店舗がある。コンビニエンスストアだ。普段は自転車で通り過ぎるだけだが、この寒い日だから暖かいものでも買って帰ろうかと、雪彦は初めてそこを訪れた。

「……おでんか、買って帰ろう」

 冬といえばおでんだろう、ちょうど温かいものがいいと思っていたところだし、この店舗から家まではそう遠くない。雪彦はセルフサービスのおでんを選んでいた。

「やっぱりまずは大根だな」  

 大きめの容器を手にし、大根を一つ入れた。寒さで売れているのか、それは最後の大根だった。おそらく奥には予備があるのかもしれないが、入れて温めるには時間がかかるだろう。雪彦は申し訳なく思った。

「あぁ、大根ないのかぁ」

 するととなりにやってきた、雪彦と同年代らしき女性が、落胆の声をあげた。雪彦が何も言わないでいると、女性は残念そうにしながらも、ほかの具材を吟味していた。

「今日は寒いですから、売れているようですね。―――良かったからこれ、どうぞ」

 せっかく手にした大根だが、幸い雪彦はこの後予定もなかったし、大根にこだわりがあるわけでもなかった。大根を追加してもらって待ち、なければ諦めればいい。

「良いんですか? すみません、ありがとうございます」

 女性はこちらを振り向き、雪彦に会釈をした。そして雪彦の顔を見るなり、驚いた表情になり、少し考え込んだ。そして彼女は顔を上げた。

「失礼ですが、早間さんですか? 私、有紗です。佐野有紗。覚えてます?」

 雪彦は彼女の顔を見つめた。幼かったあの頃の面影は、未だ消えていない。とはいえ、少女から大人の女性へ変貌した姿では、言われるまで気付かなかったかもしれない。

「あぁ、久しぶりだね。いつ日本に?」

「向こうで大学を卒業して、つい最近帰ってきて。父の実家の伝手でこの辺の企業に就職する予定なの。父の実家はこの辺りではないんだけど、知人に会社を経営している方がいたから。」

「また何でここに? お父さんの実家も会社だったろう?」

 有紗は黙ったまま、微笑んでいる。その姿がひどく懐かしく、雪彦は釣られて笑った。有紗はそんな雪彦を見ながらおでんを選び、レジに並ぶ。雪彦はおでんは買わず、有紗に付き添った。

「ねぇ、約束覚えてる? また会ったら―――」

「その時に必ず返事をするって? でも、子供の頃の話だろう」

 有紗は苦笑している。その自覚はあるようだ。雪彦はあれから、有紗のことを思い出すのをやめていたが、それでも付き合うたびに、有紗のことを指摘された。それで別れを切り出されたことは少なくない。これで割り切れると思っていた。

「そうだね。でも、私は好きだよ。昔も、今も」

 買ったおでんを手にして、有紗は恥ずかしそうに打ち明けた。それは雪彦も知らなかったことで、おそらく今まで彼女が心の内に隠してきた本心だった。

「お父さんの転勤が決まった矢先だったから、返事ができなかったの。大人になるまでは帰れないって言われていたし、あの年で遠距離なんて、無理だと分かってた。けれど、嘘はつきたくなかった……好きなのに嫌いだなんて。でも、今更だよね」

 有紗は悲しそうに顔を歪めている。もしかすれば、その為に父親の会社ではなく、雪彦の地元の企業を選んだのだろうか。知り合いのいない地で一人新生活をすることが、どれだけ大変かは目に見えている。

「ずっと忘れられなかったよ。何度か女性と付き合ったりもしたけど、長くは続かなかった。」

 有紗の手を取って、雪彦は微笑みかけた。今にも泣き出しそうな、けれど嬉しそうな顔をして、彼女は雪彦に抱きついた。

「待たせてごめんなさい。もう、どこにもいかないから。そばに居させてください。」

 震えたか細い声で告げられた言葉に、雪彦は黙って抱きしめがえした。