付き合い始めて3年と数ヶ月が経ち、結婚の話もまとまっていた彼から、電話がかかってきたのは夜のことだ。

「―――え? 依願退職? どうしたの、急に!」

 いつものようにかかってくる、彼からの電話に、明海(あけみ)は喜んで出た。しかしそこから聞こえる声はいつもより暗く、そして発せられた言葉は信じられない内容だった。

 部下が不正を働き、そのしわ寄せが上司である彼に回ってきたのだという。その部下は即日解雇され、彼自身も責任をとるように言われたらしい。部下の不正があまりにも重度のものであったので、責任は逃れられないらしい。

『明海……別れよう。君に迷惑はかけられない』

 彼は何事にも真剣で、生真面目な性格の持ち主だった。会社が倒産した後が、どれだけ大変なのかは知っている。けれど、明海は彼を失いたくなかった。

 どう彼に今の想いを伝えるべきか。明海は彼との出会いを、思い出していた。

 彼と出会ったのは、まだ明海が大学を卒業したての新入社員だった頃で、明海は彼の正体に気がついていなかった。それを知らされたのは、付き合って3年が経ち、結婚を意識し始めた、つい数ヶ月前のことだった。


「明海。聞いてほしいことがあるんだ。実は―――」

 彼が不安げに打ち明けた正体に、明海はただ呆然と彼を見つめていた。

「……それでも、側にいてくれるかい? 君には苦労をかけてしまうかもしれない。」

 彼は明海を抱きしめながら、震えていた。緊張からか、それとも正体を明かすことで、明海が去ると思っているのか。

「関係ないわ。私が愛しているのは、あなた自身だもの。たとえあなたが社長の御曹司でも」

「父にはもう、君のことを伝えてあるんだ。結婚しよう、明海」

 自分の勤める会社の次期社長。自分にとっては何よりも愛しい人。けれど、その先に苦労があるであろうことは、明海も理解していた。

 それでも側にいたい。明海は黙って彼の背に腕を回し、抱きしめかえしていた。


「何故? 私の想いは変わらないわ。私が愛しているのは、社長の御曹司ではないのよ」

『良いのかい? これまで以上に苦労するだろう。しばらくは生活すらままならない。今後は自力で生活するしかない。就職先からやり直しだよ』

「親戚に当てがあるわ。ちょっと頼んでみるから、このまま電話切らないでおいて」

 明海は携帯電話を側に、電源を切らずに置いておく。

「叔父さん、久しぶりです、明海です。実はお願いがあるんです――」

 叔父は相変わらず愉快で、そして心強かった。明海の言葉を聞き、ちょうど今年で定年退職者が2人出るから、うちにおいでと言ってくれた。

『若者2人くらい、いつでも構わんさ。うちは身内経営だからね。今度見学にでもおいで』

 叔父は電話の向こうで微笑んでいるのだろうか―――電話越しに感じる温もりに、明海は涙をこらえた。

 はい、またご連絡します。それでは。―――聞こえた? 2人ならどうにかなるって。また、やり直せばいいじゃないの。これで人生が終わるわけじゃないわ」

『すまない。何もかも迷惑をかけてしまって』

「迷惑なんかじゃないわ。これくらいで泣きべそかかないでね」

 明海は彼を励ましたかった。彼が優秀な人間で、もし彼が父親に代わって会社を経営していたなら、きっと危機を乗り越えられたのだろうと信じていた。信じれるほどに、彼は何事も完璧にこなす男だった。

『そうだね、やり直そう。まだ先は長い』

 自信を取り戻してくれただろうか、少し落ち着いた声音に、明海は一人安心した。

(私が、支えてあげないと。彼はここで負けたままでいるべき人間じゃないわ)

 ただそれだけが、明海の全てだった。


「―――え? 独立? 本当に?」

 叔父の会社に就職し、共にずっと働いてきた。2人は同棲していたものの、籍は入れていなかった。また返り咲くその日まで、その希望はとっておこうと、二人 で決めたことだった。

「ああ。これまでの経験を活かして、新しい事業に挑戦しようと思うんだ。成功するかはわからないけれど、このまま逃げているよりもいい。ついてきてくれるかい?」

 それは賭けだと、彼は言った。成功する保証はできないし、失敗する可能性は高い。けれど、叔父と相談した結果、一度挑戦してみることにしたのだという。

 明海には選択肢などなかった。どこまでもついていくと、彼に付き添っているのは明海の我儘だ。明海は彼の手を取り、微笑んだ。

「どこまでも、ついて行くわ。翔(しょう)さんが行く先へ」




 その後、翔の才能あってか、事業は大成功し、会社は大きくなって、二人が無事に結婚できるとは、この時のふたりには知る由もなかった。